すばらしいホームページ

49

「お尻を出した子一等賞ってルールわかんねえよ」問題は「熊の子見ていたかくれんぼ」が「熊の子がかくれんぼを見ていた」のではなく、「熊の子を見ながらかくれんぼしていた」と考えれば簡単な話。

熊の子がいたのを見かけたら、近くに親熊がいると考えるべきであることをよく知っている山の子供たちは、むやみに動かずかくれんぼし、熊の子の動きを注視していたのだけれど、そんな中で一人、熊の子に背を向けているどころか尻まで出して余裕を見せている奴がいる。非力な子供が熊に遭遇する、生きるか死ぬかの状況で、そんな曲芸をやってのける奴がいたら、ゲームのルールはともかく、度胸をたたえて一等賞をやるしかない。そういうことです。

48

「彼は裸ですが王様です」の方が寓話性高い。

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会社の人と怒鳴り合いの喧嘩をした後、こちらは情報提供をしているのに向こうがこちらを完全に無視して仕事が滞り、「所詮あいつは好き嫌いで仕事をするやつだな」と思う夢を見たのだが、これは俺の方が完全にサイコ野郎なのではないか。

ところで、この「会社の人」というのが、小学生の頃にわずかに付き合いがあり、顔かたちもおぼろげな記憶しかないウチダくんという人物に結実していたのである。夢の中で得た印象がその後の心象にもフィードバックされることはよくあるが、上述のような悪印象を与えても支障がないであろう対象にそれを振り向ける、脳のキャスティングディレクターの妙技には感心するばかりだ。ウチダくん、カレーとご飯が混ざっているのがイヤだと言って、カレーライスのルーの部分とライスの部分だけを食べ、ライスにルーがかかっているところを残す人だった。

46

プルタルコス『饒舌について』がデタラメにおもしろかった。

シシリー島シュラクサイの僭主ヒエロンは、いやな口臭がすると敵から言われた。そこで帰宅して妻に言った、「これはどういうことだ。そなたもこんなことは一言も私に言わなかったではないか。」

その妻は賢く純情な女性だったが、「殿方というものは皆さまこういう臭いがいたすものと存じておりました」と答えた。かくのごとく、感じとか、誰の目にも明らかなことというものは、友人や近親者より敵から知らされるものなのだ。

統治者なんかになったばっかりに、後世の人間に「口臭がひどかったことを妻にあたりちらした男」として記憶されることになった男。

賢明なるアリストテレスも同意見である。彼もおしゃべり屋につきまとわれ、見当違いな話を聞かされてうんざりしていたのだが、その男が、「先生、これは驚くべきことじゃありませんか」と言うに及んで、「なに、そんなことはない。それより、ちゃんと足があるのに君から逃げ出さずにいる者でもいたら驚くがよい」と言ったそうだからである。 これと同類のまた別の男が、さんざんしゃべったあげくに、「先生、私の話にお疲れのようで」と言ったのに対してアリストテレスが、「いや、とんでもない。 聞いてはいなかったからね」と言ったという話もある(この二つの逸話の出典不明)。

あわてないアリストテレス。

スッラは直ちに深夜に軍勢を起こして市内に乱入し、ほとんど完膚なきまでに市を破壊して殺戮をほしいままにしたので、市内は死屍累々、市場北方のケラメイコス区などは 血が川をなして流れた。スッラはアテナイ人に対してかほどまでに憤怒を燃やしていたのだが、 それはアテナイ人の振舞いではなく、むしろ自分について彼らが言った言葉が原因となっていた。 というのも、アテナイ人は城壁の上に跳び上って、スッラとその妻メテッラの悪口をはやしたてたのである。

「うどん粉まぶしの桑の実野郎」

意味はわからないがとにかく絶対に他人に向けて投げかけてはいけない言葉。

45

自己責任の時代がどうこうというより、何か異質な物事が起きたことの隙間が全て「責任」という概念で埋められるようになったことが異常なように思える。それはかつて、例えば「神の怒り」というような概念で埋め立てられていたが、科学の進歩と共に人間の手に引きずりおろされてきた。しかし人間にはできることとできないことがあるということが置いていかれたまま、異質な出来事への恐怖を埋めるために「責任」という概念を塗り込んでいく。起きてしまったことの「責任を取る」ことなんて、本当は誰にも為し得ないことなのではないか。

44

「動員」が決して許されないことだとしたら、そもそも民主主義というコンセプトが実現不可能だということになるのではないか。

程度問題としておくんじゃダメですかね。

43

ウォルフガング・ロッツ『スパイのためのハンドブック』(朝河伸英訳)読んだ。

中身については特に言うこともない(活用できるとも思わないし、活用する環境に身を置きたいとも思わない)が、世界には色んな性格の「思想」が成り立ち得るし、それが逆立ちしたまま日常生活を送ってるように見えたとしても、そこには断片的であれ、それなりの条理がある。狭義の「西洋哲学」が普遍的に成り立ち得るような言い草は、哲学の専制と言わざるを得ない。世界は相変わらずよくわからないまま進んでいく。

42

本はすごい。紙とインクだけでワクワクさせられるのだから

例えば、眉間にシワを寄せてあなたの正面 30cm のところまで顔面を寄せてメンチ切ってやれば、紙もインクもなしでドキドキさせてやることもできるだろう。

「ワクワクさせられる」とか「ドキドキさせられる」という瞬間最大風速的な感情への効果が重要なのではない。情動に中身はない。子犬がちぎれんばかりに尻尾を振って近寄ってくれば頬もほころぶが、それはそれだけのことだ。

41

「寝てる間に見た夢の話はつまらない」と言われがちだが、俺はあんまりそう思ってなくて、オチもなく解釈も難しい夢の話を聞くのが好きだ。そういう夢の話のおもしろさがどこにあるかうまく説明できなかったが、例えば前評判を知らずに読み始めた小説の序盤の、この物語がどこに行こうとしているのか想像すらできない、特に注意力と緊張を要する時間がそれに近いのではないかと思った。そういうことなら、それを嫌がる人が多いというのも同時に理解できる。

40

「私が望んでも決して得られないものを、得ている人が得ている姿を見せつけるのは暴力だ」という話を見て、まぁ無神経というぐらいのことは言えるかも知れないけど、それを暴力と言い切ってしまうのは暴力の定義を拡大させすぎじゃないっすかね、そこまで無秩序に暴力の定義を拡大してしまうと、無限の「暴力」レッテル貼り貼り合戦が開始されてしまい、世の中には信頼感も存在しえなくなってしまって殺し合いしか残らなくなるんじゃないっすかね、と思ったのと全くパラレルに、みなさんが倫理と呼ぶものの圧倒的な力で人類が絶滅するならそれはそれでいいんじゃないっすかね、類としての人のために個としての人が我慢する必要はないんじゃないっすかね、ということも揶揄でなく本気で思うのだ。

39

ルッキズムの話、「スーパーで野菜を選ぶように人付き合いを選んでいては、やがて「人間関係」という観念そのものを破壊する」という話なら了解できるのだが、万が一「見た目でなくて内面で人を選ぼう」という話に発展してしまうなら、そっちの方が地獄だよな。

38

読書の達人は「本はよいものを少なく読め」というけど、数少ないよい本を見つけ出すにはたくさん読んでみないとわからないし、「本は読み終わらなくていい」とは言うけど、いつか読み終えられるという確信があるから読み始められるという面はあるだろう。

37

「人それぞれ」ってのは何も言ってないのに聞こえがよくなってしまうので、「どうでもいい」って言いかえられるかどうか一旦考え直して、ちゃんと価値判断してから覚悟して発言した方がいいかなと思った。

36

「コンテンツ消費」という言葉が当然のように使われてるのを久しぶりに見て考え込んでいた。っつうか「コンテンツ消費」って何のことを言ってるのかさっぱりわからん。

保坂和志のエッセイってだいたいぐちゃぐちゃしてて一貫したテーマとかストンと落ちる結論というものがないせいか、読んだ後ほとんど内容忘れてるんだけど、たまに読み直すと「あ、俺がここのところ考えてたことって保坂和志の影響下じゃん」ってことがよくある。それは同じ理路を辿ったとか同じ答えに至ったとか昔読んだ文章として思い出したということではない。考え方の手つきが似ているということで、それは俺が保坂和志のマネをしたということではなく、(保坂和志が目指していた方向を思い浮かべたことはあったかも知れないが)別のことをしていても、似たような対象(例えば彫刻の対象としての石)に向かって何度も何度も手を動かす内、結果として似てくるというようなことで、その対象の石を指し示していたのが保坂和志だったのだから、俺は保坂和志の影響下にいるということなのだ。読書がわかりやすいけど、読書はそれ1冊で1冊全体を理解し需要するということには絶対にならない。ある本を読む時、かならず何か別のものを参照している。そういう格納とか参照とか組み換えは意識してないというか忘れてしまったようなことにまでおそらく起こっている。そういう参照とか組み換えをやっている時間に対して「消費」という言葉は全然そぐわない気がする。問いをひっくり返すなら、一体何が「消費された」というのか。

例えば本を読むばかりで本を書く側にならないことを「何も生み出さないから消費だ」と言いたいのかも知れないが、前述したように、何をも為さない読書はありえない。最近読んだから柄谷行人を例に出すけど、柄谷は「筆者がテキストの意味を支配する」というテーゼに対して、「筆者は書いたものを読者として読み直しながらまた書く」という微かな空隙があって、それは筆者がテキストの意味を十分には支配していないということだと指摘している。俺はこの逆というか変奏があると思う(これは変奏であって逆ではない。どれだけ緊密に繰り返すことができたとしても、読むことと書くことはそんなにすんなりと取り替えられるような対称性を持つものではないと思う)。読者はテキストを書き直しながら読んでいる。例えば、テキストを書き直しながら読んでいるからこそ、本の一言一句を丸暗記しなくとも、「読む」ことが可能になっているんじゃないか。

山崎努『俳優のノート』は、リア王の脚本を読みながら、稽古をしながら、実際に上演をしながら、どう演じるのか(=どう書くのか)を延々と考え続けている記録だった。俳優にとって脚本とは、書き直しながらでなければ読んだことにならない。

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『未明の闘争』読む。本は終盤に差し掛かってるけど物語が終盤とは言えない。だいたい冒頭からここまで本の中でどれぐらいの時間が経っているのかもわからない。全ては語り手の回想の中のことで1時間も経ってないかも知れないし、数日、1年ぐらいは経っているのかも知れない。だいたいそういう一貫した時間軸に「小説」はどれほどの価値を見出しているのか。

保坂作品はどれもそうだけど主人公は猫のことを考えている。友人宅の亡くなった猫のことを思い出していて、発病しだんだんと衰弱し、「死」が薄いヴェールのように日々を覆い、飼い主である友人夫婦はいても立ってもいられず代替医療でも何でもすがりつく。ここまで読んで「ホメオパシー乙」と片付く話ではなくて、言うまでも無いが代替医療の是非の話なんかしてるわけじゃなく、そのすがりつかざるを得ないほどガタガタにゆるみきり、いつタガが外れてもおかしくないような、いわば「魂の振動」について考えよう、書こうとしている。

いや、続いて「スピリチュアル乙」というコメントはやっぱり想定できるが、やっぱりそれはここまで読んでそれしか考えが及ばないなら一体何を「読んだ」のか、「考えた」のか、と言いたくなる。魂という言葉が使いやすいのでこれで行ってしまうけど、保坂和志の小説を駆動するのは、「魂はあるのか、ないのか」について考えることではなく、「なぜ、魂について考えてしまうのか」「魂について考えてしまうというのは、どういうことなのか」というレベルで駆動している。スピリチュアルがつまらないのは「魂はある」という大前提からスタートする積み上げでしかないからで、その足元を掘り崩すようなことがないからだ。

私はあの一郭にいる時間の中でも、それを記憶から引き出している時間の中でも、最初は言葉によって形容する必要のない気分の中にいたはずだったのにそこにすぐ言葉が入ってきて私の気分を掠めとる。掠めとられたことに私は気づかず座を占めた言葉と揉み合い、もう私の気分でなくただの言葉なのにその言葉が自分の気分だという錯覚にどんどん足を取られる。

言葉は暴力であるとはこのことだ。

保坂和志 『未明の闘争』p.411

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武田百合子の『富士日記』より自分の日記を読んでる方がおもしろいんだけど、古今亭志ん朝が「自分の方が上と思ったら相手と同格、自分と同じくらいと思ったら相手の方が上、相手の方が上だと思ったら相手ははるか上」という意味合いのことを言っていて、それによれば武田百合子と俺は同格である。『漱石日記』は自分の日記と同じくらいおもしろいので夏目漱石は俺より上。

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最近はすっかり個人の中の一貫性ということに不信感を抱いてしまっていて、それはつまり生まれた時にはバブバブしか言わなかった俺がこうして色々考えながらキーボードを叩くようになっているという事実からしても、一貫性を求めるのは無理があるということで、捉え方としては、変化の無い普遍的な内面性としての「一貫性」として捉えるより、時間の経過とそれに伴う変化の前後を連結して捉えることでその幹を描き出すようにした方が妥当な感じがしていて、そのためには1つ1つのまとまった記事よりもタイムスタンプをアンカーにした連続する文章を意識した方が良いし、最終的には「ブログよりも日記」といういつもの結論になるわけだが。

「時間の経過とそれに伴う変化の前後を連結して捉える」ということについて、例えば「ネットでは本当の自分を出しやすい」と言われることがある。インターネット上では、自らの社会的な属性を切り離し、しがらみにとらわれることなく、思うがままに発言することができると考えられているからだ。しかしちょっと考えてみればわかることだが、これは大きな間違いである。第1に、発言の基となる観念を選定するのが「自己」であるならば、浮き上がってきた観念を社会的属性のふるいにかけるのも、まごうことなき「自己」であるということ。第2に、「自己」は「発言のオリジナリティ」を担保しない、単なる責任主体でしかない。言語が言語である以上、出力は全て「どこかで見たり聴いたりしたようなこと」にならざるを得ない。それに「個」性を与えるのは、「自己」という責任主体の存在でしかない。そこには「本当」も「嘘」も無く、「取っても構わないと思える責任」と「できれば取りたくない責任」の違いしかない。

つまり、必要とされるのは、「私は本当はこう思っている」ではなく、「私はこう思っているが、これこれこういう理由で発言することができない/できなかった」という記述になる。それは一貫していなくて良い。連結されていることこそが重要だ。その連結が言葉の関係を明らかにする。

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道端の甕に住み、公衆の面前でおちんちんをいじってたって「古代ギリシャの哲学者のパクリ」って言われかねないんだから、だいたいのことはやりつくされてる。

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「俺が初めて見た瞬間から今に至るまで意味がわからない言葉」といえば「懺悔ヌード」であることは既にお馴染みかと思いますが、「最初見たときは特に疑問に思わなかったけど、最近よくよく考えたら意味わかんないなと思った言葉」といえば「初期衝動」です。

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新年もスピノザ『神学・政治論』から始まる。ユダヤ人が果たして「神に選ばれた特権的な民」なのかどうか、という論点について。

ここでパウロは、わたしたちが先ほど述べたのと異なることを教えているようにも見える。彼は「してみると、ユダヤ人の優れた点は何でしょう。あるいは、割礼の利点は何でしょう。それはあらゆる仕方でいくらでも見出せますが、第一には、彼らに神の言葉が託されたということなのです」と述べているからだ。しかしパウロが説こうとしている教えの主旨に注意を向けるなら、わたしたちの先ほどの主張と対立するようなことは何一つ見つからないし、むしろ反対に、彼は先ほどのわたしたちと同じことを説いていると分かるだろう。たとえば第三章二十九節では、神はユダヤ人と他民族どちらの神でもあると言われている。また第二章二十五~二十六節でも、「もし割礼を受けた人が立法に反するなら、受けた割礼は包皮[=無割礼]となるでしょう。反対に、もし包皮を残した[=無割礼の]人が律法の指図を守るなら、その人の包皮は割礼と見なされるでしょう」という。

バールーフ・デ・スピノザ『神学・政治論(上)』吉田量彦訳 光文社古典新訳文庫 p.174-175

おちんちんの皮が「ユダヤ人」の代名詞にまで上り詰めた瞬間。

ところで神にとって大事なのは「おちんちんの皮が取り除かれた状態」なのか、「おちんちんの皮を取り除くという儀式」なのか。もし後者が重要だとすると、たとえば今後人類がおちんちんが皮に包まれないようなミュータントとして進化した場合、その「進化」という自分1人の意思や力によっては抗えない状況によって、神の意に背くことになる。しかし前者が重要なのだとしたら、おちんちんが皮に包まれないように人間の遺伝子を操作するようなことは、むしろ神の意に沿った行いということになるのではないか。これは最先端科学と神学を架橋する重要な問題ではないのだろうか? 俺は元旦から一体何を書いているのか?

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寝てる間に「ねた。」とだけ書かれたメールが届いていた。こういう時、メールとか手紙とか、とにかく書き言葉でやりとりすることを呪わしく思ってしまう。

別にやりとりするのがイヤな相手ではないし、それが夜中に届いたこともイヤではない。着信に気付いて目を覚ましていれば、そこからやりとりするのもイヤじゃない程度の相手だ。俺はどちらかといえば朝早い方だし、相手は夜遅くまで起きてるタイプだから、遅めの時間にメールが来ること自体は珍しいことでもない。

つまり、文面である。「ねた?」なら1番通りがいい。俺が朝方であることを相手は知っているから、よもやま話をする前に確認を入れ、俺は寝ていたためにそれに気づかなかった。でもメールにははっきりと句点が打たれている。相手の携帯電話(相手はスマートフォンを持っていない)では、句点とクエスチョンマークが同じキーに割り振られているのか、俺は知らない。押し間違いかも知れないし、そうでないかも知れない。

あるいは「ねてた。」なのだろうか。相手とは日常的にメールでやりとりをしているし、生活時間帯が違う。以前に送ったメールへの返信が断片的ではあったので、その続きを書こうとして「ねてしまった。」のかも知れない。

もしくは「ネタ(を早く出せ)。」だろうか。相手と漫才コンビを結成する約束をしたた記憶はないが、近年俺の性格はどんどんいい加減になってきており、特に飲酒した時はひどい。会話が盛り上がったところで「俺たち漫才できるんじゃね? 俺がネタ、書くからさ、やろうよ!」なんて口にしたのかも知れない。それを真に受ける方も受ける方だと思わなくもないが、しかし切り出したのは俺である。相手を責める道理はない。

そもそもメールを送る先を間違えたという可能性もある。相手は別の誰かと連続的にやりとりをしていて、その中の脈絡ででてきた何らかの「ねた。」なのかも知れない。それならば文脈的には1番すっきりする(というか何も考える必要がない)が、そうかどうかはこちらからリアクションを返さないとわからない。「送り先間違えてる?」というのはいきなり訊きづらいので、上記に挙げたような内容から推理して手をかけてメールを送り、仮に「ごめん、送り先間違えた」と返ってきた時の気まずさたるや。ああ、呪わしい。

例えばクルマ社会というのは、みんながクルマに日常的に乗っている社会のことを指すだけではない。クルマが日常的に使用されるためには、道路を整備し、標識や信号を建て、ガソリンスタンドを設け、駐車場を用意し、それら全てに関わる法制度を整える必要がある。そういった周囲の環境をクルマに合わせて変えることが必然とされる、悪く言えばそれが強いられる社会のことをクルマ社会という。リアルタイムテキストメッセージング社会も同じことだ。即応性が期待できるから、1つ1つの投稿は端的で短いものの方が好まれるし、相手からのリアクションに対するこちらからのリアクションの自由度を高めることができる。しかし文脈の自由度が高まるということは、そもそも文脈が解体されているということだ。クルマ社会の弊害が交通事故や大気汚染なら、リアルタイムテキストメッセージング社会の弊害は文脈の解体とそれにともなう俺の懊悩だ。

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Tumblr を指して「思考が瞬時に共有される時代」と言った人がいたのだけど、そうではなくて、「思考と呼んでいるモノがブログ記事1個分程度のモノでしかないと思われている時代」なんだと思った。

どう考えたって思考とは「流れを伴った量」としか考えられないものだ。思考には前があり現在があり後がある。デリダが「網羅的な年代記の欲望」と呼んで憧れたような日記の欲望とは、そういった「思考」の性格を表している。すなわち、年代記とは、「前があり現在があり後がある」時間的配列に従って統御されるテキストであり、またそれぞれの章がまとまっていることに意義のあるもので、バラバラの切り売りでは価値を持たない性質のモノである。あるまとまりの思考と別のまとまりの思考が前後に配置され、それらが互いに響き合って色彩を成す。

「ブログの過去記事はほとんど読まれない」という話、事実としてはその通りなのだろうけど、過去記事を読みたくならないようなブログなんぞ、そもそも読むに値しないブログだと思う。

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部屋のどこかから洗ってない犬のにおいがするんだけど、死んだ飼い犬がよくこんなにおいをさせてたな、と思ったら原因を除去する気になれない。

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弊社にも新卒入社社員がやってきていますが、1つ言えることは、最近の若者はしっかりしている。

おじさんが若いころはな、もっとグシャッとしてたよ。今ほどグシャッとはしてなかったけどな。

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俺もモンドセレクション金賞受賞したいな。履歴書の賞罰欄に書きたい。

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残業が遅くまでかかってくると「請求書の神が降りてきた」とか「社内申請の神が降りてきた」と言いながら仕事する同僚がいるんだけど、あの人働き方改革しようとすると、まず神との対話から始めなきゃいけないから大変そうだな。

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労働して賃金を得てる程度のことで「社会人」なんて名乗るな、「賃金奴隷」という正しい日本語を使え! と常々思っているが、「うるせー! 俺はインターネットでかわいいネコちゃんとワンちゃんの動画しかみたくねぇ!」という話にもわかる……ってなる。この思考の網目の結節点をたどると「人生はしんどい」という結論にしかたどり着かない。この網目を根底からひっくり返すには「おもしろがる力」が必要で、この力を研ぎ澄ますには不断の努力が必要で、そんなの余力があるやつにしか無理だろって言われたらその通りで、またブラックホールのように「人生はしんどい」に引き寄せられてくる。

とりあえず「夜中に物を考えない」「よく寝る」ことから始めるしかない……っつってもそれすらままならん人は多々いる。うごご。

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「色々不満はあるけど、俺のトイレトレーニングをやってくれたと考えたら、最終的には親には頭が上がらない」と今まで考えてきたけど、俺のトイレ作法が世間一般の常識に適合するかどうか確かめたことは一度もないな。俺の尻の拭き方は盲信に過ぎなかったのだ。40を前にして急に不安になってきた。不惑は遠い。

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「ナントカ占い」とか「カントカ診断」みたいなやつが結構好きで、見かけるととりあえず個人情報を突っ込んでしまう。たぶん「お前はこれこれこういう人間である」って断言されるのが好きなんだと思う。

昔の Amazon のレコメンドページもそんなところがあって、好き嫌いを編集するのが楽しかった。AI を育ててるって感じがあった。今のおすすめリストは購入履歴上の個別の商品のご近所さんをただ並べてるだけに過ぎず、つまらない。もっと「お前はこれが好きなはず!」って断言してほしい。っていうか15年ぐらい買い物の情報を提供し続けてきたのに、どうして今更『バカの壁』とかレコメンドしてくるんだ。バカか。

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齋藤孝の『こども孫子の兵法』って「源頼朝3歳の時分のしゃれこうべ」みたいな小話かと思った。

あとビジネスに孫子の兵法を活用しようみたいな人たまにいるけど、孫子は敵地での掠奪の重要性を繰り返し説いてたりするので、ヤバいなと思う。

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くら寿司の「エンガワ(カレイ)」みたいなコンプライアンスへ配慮されたメニュー名が好きだ。そしてカレイのエンガワ、けっこう美味しいじゃんと思って食べてて油断してると「究極のかにかま」みたいな抽象概念がベルトコンベア上を流れてくる。中までいかないけど下の上、みたいな、コンプライアンスへの配慮を堪能する。

電車に乗ったら、小林克也がボーカルをとるバンドがスペシャルライブをやるという広告があった。

「一夜限りのベストライブ!」

一夜限りなら確かにベストライブに違いない。観なくてもわかる。広告に偽りなし。非の打ち所のないキャッチコピーに感服した。

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テレビで梶井基次郎『檸檬』を解説しながら、「青年は檸檬を爆弾に見立てて錯覚することで、自分を圧迫する現実を吹き飛ばそうとしたのです。皆さんも圧迫されるような現実に立ち向かうには、現実を錯覚してみる必要があるかもしれませんね」と言ってて笑った。これは哲学の問題である。

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どうしてスポンジボブのサイケは大好きなのに、テレタビーズのサイケは許せないのか。と他人に問いつめられて初めてその謎について考えたのだけど、テレタビーズは歌い踊り狂ったあとで「タビーカスタード」というゲボみたいな飲み物をゴクゴク飲んでるところが最悪なのではないか、という一応の結論に至った。

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「一方、ソ連は鉛筆を使った」という大好きなジョークの文句がそのまま使える貴重な機会を得て、嬉しいので記事にする。もともとのジョークはこちら。

アメリカのNASAは、宇宙飛行士を最初に宇宙に送り込んだとき、無重力状態ではボールペンが書けないことを発見した。

これではボールペンを持って行っても役に立たない。

NASAの科学者たちはこの問題に立ち向かうべく、10年の歳月と120億ドルの開発費をかけて研究を重ねた。

その結果ついに、無重力でも上下逆にしても水の中でも氷点下でも摂氏300度でも、どんな状況下でもどんな表面にでも書けるボールペンを開発した!!

一方、ソ連は鉛筆を使った。

When NASA first started sending up astronauts, they quickly discovered that ballpoint pens would not work in zero gravity. To combat the problem, NASA scientists spent a decade and $12 billion to develop a pen that writes in zero gravity, upside down, underwater, on almost any surface, and at temperatures ranging from below freezing to 300 degrees Celsius.

The Russians used a pencil.

以下は冒頭の記事からの引用。

「私は、スマホにはもう一つの大きな機能と役割があるのではないかと考えました。それは、人間の知識創造のベース、『自分の思考基地』としての機能です」

そんな須藤氏が提唱するのが「スマホメモ」、すなわちスマホのメモ欄の活用だ。自分の気づきや知見をどんどんスマホにメモしていくと、何か起こったときに、それをいつでも取り出せる。脳の記憶だけでは心もとないが、スマホメモならその心配は無用。さらには、頻繁にメモを取ることで、考える時間を確保できる利点まであるという。

一方、ソ連は鉛筆を使った。

スマホメモを始めて、自分のライフスタイルで一番変わったことは何か。

それは、インプットとアウトプットのバランスです。もう少し正確に言うと、インプットとアウトプットの中間の部分、脳が思い浮かんだことを、メモとして書き付け、意識して記憶し、知恵化するという行為やその時間が増したのです。その分、インプットの時間が減りました。

インプットとは、例えばTVや新聞、Webのニュースなどでさまざまな情報を入手する行為、アウトプットとは人との会話やビジネス上のまとめを作ったりプレゼンをしたりすることなどを指しますが、スマホメモはどちらかと言うとその中間の扇の要(かなめ)の部分に属すると私は思います。

一方、ソ連は鉛筆を使った。

インプットが目に見えて減ったというのを具体的に言うと、まず私はTV番組をほとんど見なくなりました。新聞雑誌も日経新聞と日経ビジネスを取っているのですが、以前より読み切れていません。最近では、読み切れていないレベルがけっこう尋常でなく、いつか読もうと思って取っておくのですが、机の周りにどんどんたまっていき、結局最後には読まずに捨ててしまうという、普通の価値観から言えばもったいない行為を繰り返しています。

なぜこんなにも読まなくなったかと言うと、少し読むたびに何か気づきがあり、「あっ、この考えメモしておきたい」という衝動に駆られ、ついスマホを取り出してメモしてしまうからです。そうすると、その分読む時間が割かれ、メモする時間、つまり、消化の時間になってしまうのです。

一方、ソ連は鉛筆を使った。

むしろ、今までがインプットの時間が長すぎたのではないだろうか。TVをのんべんだらりと見ているよりも、スマホメモで自分の考えを明確化し、記録しておく行為の方がよっぽど楽しいと思い始めています。

一方、ソ連は鉛筆を使った。

本書を読んでいただければ、あなたもすぐにそういうライフスタイルに変身できます。なぜなら、スマホメモは小難しいことや忍耐が必要とされることなどまったくなく、これを取り入れるだけで、脳がアウトプットしたいと欲するように仕向けられるからです。

一方、ソ連は鉛筆を使った。

ちなみに、宇宙船で鉛筆を使うと黒鉛のカスが基盤に入り込んだりする危険があり、推奨できないらしい。たまにスマートフォンを充電中に感電する人がいるし、電気を使う器具には常に注意が必要ですね。

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恋愛小説と恋愛が別の空間を対象にしているのと同じ様に、倫理学と倫理も別の空間を対象にしている。「A か B かどちらかしか助けられない。どちらを選ぶべきか」という問題が「倫理学」への導入として使いやすい問題設定だというのはよくわかるのだが、落ち着いてよく見直してみるべきなのは、「A か B か」という選択をすることは「考える」ことにはならないということだ。この場合、少なくとも「A か B かどちらかしか助けられない」という仮構の前提に対して「両方助ける方法はないのか」と問い返すことが「考える」ことのスタート地点、ひいては「倫理」空間の入り口だと言える。

という話をするとだいたいポカンとされる。「選択の自由」が「自由」なんかでは全くないということをいちいち確認するところから始めないといけないというのは、難儀なことである。

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「ありえた自分」が並列に存在するような、平行世界論の退屈さというのは、たとえば「今の私と違う会社に努める私」「今の伴侶とは違う人間を伴侶にする私」は認識できても、「髪の本数が数本少ない私」「さっき歩き始めた時に左足を踏み出した私」は認識できないということによる。

つまり、そういった平行世界論とは、世界が重なりあって広がる偉大な存在論を前提にしているのでなく、ちっぽけな人間風情がステータスを認識するための語彙(職業、人名、国籍、預金残高……)のインデックスをただなぞっているだけに過ぎないという退屈さなのである。そこには世界が、存在が存在することへの驚きは失われており、自分の脳味噌に構築された偏狭な鳥かごへの引きこもりにしかなっていない。

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仕事の段取りでも何でも物考えてる時は網目状に広がっていくので、文章も網目状に書けないものかと時々思う。まぁ網目状に書く方法はひねり出せるだろうが、網目状に読む方法はおそらく実現不可能なので、試してない。

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ポケットモンスターのテレビアニメ放映開始に際して、ピカチュウに「ピカチュウ!」と鳴かせることを思いついた人間は天才か狂人のどちらかである。

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サイゼリヤでマキァヴェッリ『ディスコルシ』読み終える。

マキァヴェッリは『君主論』があまりにも有名なので、てっきり君主制の絶対擁護者なのかと思ってたけど、本作では君主制と共和制の利点と欠点を比較検討し、若干の矛盾をはらみながらも、総論としては共和制に肩入れしているように見える。

この揺れは「君主制か、共和制か」という論点を取ろうとすると煮え切らない態度に見えるが、「国家を安定的に永らえさせるにはいかにすべきか」という論点を取ってみると、その検討作業の徹底として見えてくる。彼によれば、一般庶民の安寧は、国家を安定的に運営する手段であって、目的ではない。彼によれば、人々の欲望は底なしであるゆえ、富の無尽蔵の追求は必ず国家の破滅をもたらす。よく統治された共和国は、国庫は豊かであり、国民は清貧を保つ。そしてただ清貧を押し付けるのではなく、清貧に名誉が伴うようになっているのだと。

ピザを食べおえて、ドリンクバーで何度目かのコーヒーを注いで帰ってくると、隣の席の若い家族が食事を終えて席を立った。幼い男児が「おいしかったね、おいしかったね」と母親に確認して、こう言った。

「おいしかったね、おなかがすいてよかったね」

満足を得させるには、まず飢えさせよ。マキァヴェッリの透徹した政治思想は、幼い男児の素朴な感想に通じてもいる。

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文学の基底には「why」があるというのが持論だ。私は生きている。何故なのか。あの人は死んでしまった。何故なのか。書くというささやかで婉曲で暴力的な営みは、自らが拠って立つ基盤を「何故」と掘り返してみることから始まるのではないか。

では、文学の対極にあるものは「納得」だろうか。 心から深く納得し、無意識に刷り込まれているようなものについては書かない。書く手間をかけることに思いが及ばない。まぁそうかも知れない。

葬祭場の広告に小さく「きれいな霊安室完備」とあった。「駅に近くてとても便利」はわかる。「館内見学受付中」もわかる。「事前見積無料」も広告に示す意味がわかる。「きれいな霊安室完備」だけがわからない。

葬祭場という場所に出入りする時間のうち、霊安室に出入りする時間はほとんどないと思うが(俺自身は全く記憶にない)、それがきれいであることにニーズがあるのだろうか。レビューサイトに「価格も満足、対応も丁寧でよいお取り引きでしたが、霊安室が汚かったので星4つです」とか書かれたことがあるのだろうか。それとも業界的な知識として、霊安室は汚れやすいという認識があるのだろうか。わからん。

わからんのでこの文章が書かれました。

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最近悩んでることがあるんですが、暑いのできゅうりを買ってくるんです。近所のスーパーで3本100円。これのトゲを包丁の背でこそいで、塩を振ってジップロックに入れて、冷蔵庫で30分ぐらい置いとく。余分な塩を洗えばもう食べられる。手間としては実質5分ぐらいのものですかね。手軽でいいんですが、最近近所のスーパーにぬか漬けきゅうりのパック3本150円というのを見つけてしまった。50円余分に払って5分の手間を省くべきか、これに頭を悩ませているわけです。

時給換算すれば600円。今の勤務先は一応最低賃金を上回ってはいるので、給与換算すれば割に合わない、50円を払うべきということになりますが、果たしてそういう計算を用いることが妥当なのか。第一の問題は、私は怠け者だということです。この5分を省いたとて5分余計に働こうなどとは微塵も思わないわけで、残業代で酒を飲むくらいなら早く帰ってきゅうりをかじる方がいい側の人間なんです。わたしゃ。

第二には、この問題は西洋哲学史にしっかと踏ん張る重大な問題をはらんでいるといえます。ゼノンという古代の哲学者が提唱した有名なパラドックスがあります。『アキレスは亀に追いつけない』というエピソードはお聞きになったことがあるかも知れません。ギリシャ神話に登場する英雄アキレスは脚が速いことで有名です。このアキレスが亀と競争をする。亀はアキレスの半分の速度でしか走れないので、ハンデとしてスタート地点をアキレスのずっと前方に置いて、競争が始まる。アキレスは亀の倍の速度で走りますから、当然グングン亀に追いついていくわけですが、アキレスが一定の距離を走り、亀がいた A 地点にたどり着いた時、亀はすでにアキレスの半分の距離を走り、前方の B 地点にいる。アキレスが A 地点を通過し B 地点についた時、亀はまたアキレスの半分の距離(A 地点と B 地点の距離の半分)を走り、C 地点にたどりついている。アキレスが B 地点を通過し C 地点にたどり着いた時、亀はやはり同様に D 地点にたどり着いている。お察しの通り、これは無限に繰り返すことができる。従って、アキレスは亀に追いつけない。これがアキレスと亀のパラドックスです。

フランスの哲学者ベルクソンは、このパラドックスの問題を「運動は一定程度の持続を前提に考えるべきであり、時間を切り刻むようにして考える思考法そのものが間違っている」と喝破しました。アキレスと亀の関係を数直線上に表すと、その「走り」の速度を輪切りにできてしまいますが、「走る」という行動をよく振り返ると、「振りかぶり」があり、「ため」があり、「躍動」があり、一連の筋肉の緊張と弛緩が連綿と組み合わさり、一定程度の時間的持続があってこそ、一定速度の「走り」が可能になる。そういう不可分の持続を前提に考えなきゃいけない。

ベルクソンの話の本来の文脈はさておくとして、この話は、「数直線的な思考」の誤りを暴いています。きゅうりの塩漬けの話に戻れば、5分50円という数字を、60分600円にただちに変換する「時給換算」する操作自体の妥当性は自明なものではないということになる。実際、5分で3本きゅうりを仕込むとして、それを60分36本に拡大したところで、36本のきゅうりを傷む前に食べきることができるかどうか怪しい。5分は長すぎるから、2分30秒で1.5本のきゅうりを仕込み、25円を浮かせられるかが分水嶺になる、という計算も成り立たない。3本のきゅうりを仕込むのと、1.5本のきゅうりを仕込むのに、実際大きな時間差は発生しないからです。ここには、単純な掛け算・割り算を成立させる前提条件がそろっていないからです。

時間が不可分であるなら、貨幣の方はどうか。50円という金額についてはどう考えられるか。ここでもやはり同様の問題が起こり得ます。600円の物を12等分して50円の物として入手できる場合は限られている。600円と50円は12:1という単純な比で考えられるものではない。50円という価格に労働価値であれ使用価値であれ交換価値であれ(こういった用語も、経済学という1つの領野を切り開き、連綿と続く、1つの思考の空間を構築する言葉であり、その起源ははっきりと西洋哲学史に接続されるものです)、どのような価値、意図、誤認が込められているのであれ、単純に計算可能なパラメータとしてだけ扱うことはできないということだけははっきりしています。

時間は言わずもがな、お金というものはもはや私たちの生と切り離せないものであるなら、きゅうり3本100円か、ぬか漬け3本150円か、という問題は、生き方の問題ということができます。それは「意志」「つかみとる未来」「あるべき自己像」などという、虚空に投影された空虚な概念としての「生き方」ではなく、血が通い肉が盛り上がり深く深く呼吸し代謝する、不安定ながらも決定的な地盤、その上に立たなければどのような運動をも考えることもできないような、大地としての「生」のあり方を考える、ということなのです。

というホラ話を考えていた。

8

お店のトイレの壁の張り紙に「当店ではトイレ内も含め、店内全ての箇所において禁煙とさせていただいておりますが、店頭にてトイレ内での喫煙についてお客様から多数のご意見を頂戴しております。あとからお使いになる形のためにも喫煙は店外近くの喫煙所にてお願い致します」とズラズラ書かれた日本語に対して、英語で「No Smoking」とだけ書かれていた。日本という国はおもてなしの国なんじゃなくて、同じことをやるためにこれだけ気を使わなきゃいけない国なんだと思う。

7

10年前に勤めてた職場に、当時60手前の大先輩がいた。フィリピン人の彼女(?)がいて、呑む打つ買うと三拍子そろったおじさんだったのだけど、ある時大先輩の携帯電話から「残酷な天使のテーゼ」の着メロが流れてきた。

そんなイメージは全くなかったので、「エヴァンゲリオン好きなんですか!?」と驚いて尋ねたら、「エヴァには随分稼がせてもらったから……」と大先輩はパチンコのハンドルを回す仕草をしてみせながら、照れ笑いした。

「ところでバイアグラの通販を見つけたんだけど、効くと思う?」と大先輩は話題を変え、錠剤が写った謎のチラシを見せて尋ねてきた。「飲んだことないし、わかんないす……」と答えながら、この人、マンガみたいなおじさんだな、と思った。

6

スマッシュブラザーズの新作を買ったのだけど、操作を全然覚えてなくて笑った。稽古をつけてもらおうと、ニンテンドー64の初代から遊んでいた友人 S と一緒にプレイしたんだけど、S もやっぱり何も覚えておらず、老人のおゆうぎのようなヨチヨチした対戦を5回ぐらいやって、ため息をついた。

職場に何を言われてもすぐ忘れる人がいて、「あれやりましたか」「これ終わりましたか」と訊くと「あー、忘れてた。あとでやります」と返ってくるんだけど、3日後ぐらいにまた同じやりとりをすることになる。前職にものすごく仕事ができる F さんという人がいて、F さんは「私は他人にメモすることを求めない。尋ねられれば何度でも同じ説明をする」と言っていて、その真意がわからなかったんだけど、すぐに忘れる人を前にして一層わからない。F さんに教えてもらいたい。

見慣れた通勤路に急に空き地ができていると、その前にあった建物が何だったか思い出そうとしても、たいてい思い出せない。たぶん思い出せたことは1回もない。「世界」が存在を前提とするなら、以前の建物があった世界は失われてしまったのか。今の空き地は単に空き地なのか、「以前に建物があったが、取り壊された結果成立した空き地」なのか。後者のように世界が現存在だけを指すのではなく、時間軸をも内包するのであれば、それは記憶に基づくものなのか。誰の記憶に基づくものなのか。

5

弊社も例に漏れずモチベーションオフィスの試みなどやっているわけですが、そもそも、人間「やりたいこと」「やっていておもしろいこと」は言われなくても勝手にやるわけだから、モチベーションの問題というのはすなわち「やりたくないこと」の問題である。「やりたくないこと」は、理念的には「やりたくないけど、やらなくてはいけないこと」「やりたくないし、やる必要もないこと」の2種類に分けることができ、さらに「やりたくないけど、やらなくてはいけないこと」はほとんどの場合、やはり(最終的には)勝手にやることになる。「やりたくないし、やる必要もないこと」は言うまでもなく問題の俎上からはたき落としてよいものである。

となると、モチベーションの問題と言われている状況は、その実、必要性や緊急性の順位付けと意味付け、そしてその内面化に失敗しているところに立ち上がってくるものだということになる。椅子やら机やら PC やら工具やら作業服やら何やらかんやらを整えるというのは単純に労働環境衛生といささかの効率性の問題であって、(一般にモチベーションの問題とされがちな)内発的なエネルギーの掘り出しの問題ではない。そして順位付けや意味付けは、少なくとも営利事業のレベルにおいては、経営の根幹に関わる話であって、その欠陥の補填をあわれな末端労働者の内発的エネルギーの採掘に求める態度とは、まさしく再生不可能なエネルギーの枯渇を招く反エコロジカルな態度である。すなわちこれらを唱導する者たちは政治的に正しく吊すことができるということだ。

4

漢字の書き取りを思い起こしてみるべきである。繰り返し書き取り、手が覚え、眼がなじむことによって、身体に刻み込まれる。我々は明らかに、アウトプットによりインプットするのである。

そしてその文字は、文字コードと変換の規則として記憶野に格納されるのではなく、その一手間一手間によって、黒鉛の粒が紙に刻み込まれ、描きだす、一つ一つの線をなでるようにたどり、その線と線が編み上げる視覚効果の縫い物が文字を創造する。文章を創造する。それは何度でも創造しなおされる。我々は明らかに、インプットによりアウトプットするのである。

インプット・アウトプットという二元論の誤りは、その二者の間を行き交う「情報」を、まるで倉庫に積み上げられる段ボール箱のように、時間的空間的に限定され固定された対象とみなすことの誤りに端を発している。それは何度でも創造しなおされる。

3

「友情」だとか「愛情」だとかを声高に称揚しすぎるから、「ただ横に座って、話を聞いている」というだけの関係の成立を難しくしてしまう。

2

俺は比較的に、個的な人間について考えることが少なかった割に、類的な人間については興味を持って色々勉強してきた自覚があって、あまりよい態度でないと思ってきたけど、そもそも個的な人間について「考える」ことなどできるのか。個的な人間には「関係する」以外の関わりは不可能なのではないか。という気がしてきた。マルクスにとって個的な人間が永遠の謎だというが、意思の自由をもって個的な人間を表せると考えるのも不十分なのではないか。

1

「目標があるから成長できるし、目標があるからゴールにたどり着ける」ということは会社でよく言われることで、偉大な事業を成し遂げた人物がそうやって成したことの上に今の俺の生活もあるんだろうから、ないがしろにはできない話だが、しかし根本的な理屈の問題として、成長前の自分が立てた目標に成長後の自分が価値を感じることができるものなのか。

10年前に「今から本を読んでどこかにたどり着けるわけでもなかろうが、それでも読まないよりはマシだろう」とフランス現代思想をかじり始めた俺の現時点は「高校で勉強する内容が一通り理解できてたらかなり人生豊かになる」「中学・高校の理数を勉強し直そう」だからね。まぁこれだって成長と到達だという言い方もできようが。